ぬかるみ小路に逸れる

文章の溜まり場所として使っていこうと思います(超不定期)

短文②

「日より(幸あれ)」

幼い男の子は父親に後ろに抱かれていたから父親の首の横からこちらに顔を向けていた。
男の子と弘子の目が合う。
男の子は笑いながらこちらに手を振った。

私はそれを呆然とただ眺めていた。ほんの数秒の出来事だった。男の子の行動に男の子を抱えている父親も隣に歩いていた母親も一瞬後ろを振り返る。
弘子はただそのまま家族の後ろを、公園の出入り口のある、同じ方向に歩いていただけだったからそのまま、何もなかった。
男の子も身体を前に戻して母親と戯れる。
家族は何のこともなく歩いていった。

私はあの一瞬、男の子は私に手を振ったと思った。あの時男の子がこちらに手を振ったとき、私は手を振り返してあげればよかったのか、困った。
幼い子の無邪気さは誰に対しても平等に向けられることがある。私は少なくともあの時あの男の子に人として存在を認められた、と思えた。
男の子の目は弘子が彼のお母さんとお父さんのような同じ”人”に映ったのだ。
男の子の、弘子を人として、社会に生きるヒトとして向けられた眼差しと手は、なんて平等なのだろうと思った。と同時に私が彼に笑って手を振り返してあげなかったことがその幼子の純真さを、普遍の境界を妨げる要因になっていってしまうのかもしれないとも思った。

アンレスポンス、送った行為に好意(行為)が返されなかったと知ったとき、その行為は無駄だとわかって同じ事はもう一度しなくなってしまう。
幼子が誰かに手を振ったとき、それが返されないと知ると幼子は”誰か”に手を振ることはしなくなるだろう。
それが知らない大人だったとき、幼子は知らない大人には手を振ることはしなくなって、家族、親戚友達と”知ってる”と”知らない”との境界が形成されてゆく。
そうやって弘子も学習して大人になっていったし、それが社会に生きるヒトの自然な在り方でもある。

だけど・・・と弘子は思う、手を振って振りかえされないことであの子が、自分と外とに一つ線を引くことを覚えるのだということを思うと、お節介だとは思うがなんだか虚しく思うのだ。男の子もまたそうして大人になっていくのだと思うとなぜだか悲しくなってくるのだった。

弘子が手を振り返してあげていたら、男の子の中に一つの確かな記憶が形成されたかもしれないのだ。少なくとも手を振ったことが無駄なことではなかった、と。ヒトは案外返してくれるものだと、そんなに人は非情ではないのだと、外は無常でもないのだと、そのわずかな温もりを。

あの一瞬、弘子は世のヒトと同化したし、無常だった。幼子の特有の誰にも向けられる無邪気さにさらされただけで、男の子もその家族も弘子との関係に何の悪もなければ善もなくただ無という関係だけである。
そうやってヒトたちは無の関係の中にあって、細分化されたテリトリーのコミュニケーションの中に身を置いて外と私たちとを隔てていく。

・・・あの子はこれから普通の大人になっていくのだろう。ああいうのは幼子にはつきもののいくらでもある日常の出来事の一つだ、やっぱり実際どう反応していいか困るなあ。
それにもし仮に手を振っていたところで子どもが好きだとか、あるいは私も同じ母親だとかいう雰囲気がなければ母親たちに私が不審者だと思われることだってあるのだし、ああいう風に無視するのは処世術として世の流れとしても自然なことだよね、と弘子は寝床で振り返って、その日眠りについた。