ぬかるみ小路に逸れる

文章の溜まり場所として使っていこうと思います(超不定期)

節話

「花見」

祭りは花見の見物客で賑わっていた。屋台のキッチンカーで買った牛肉コロッケを頬張りながら人の中に混じって花道を歩く。見ればみんな思い思いに屋台で買った食べ物を食べ歩きながら花の前に立ち止まっては写真を撮り、あるいは花見なんかそっちのけで次は何を食べようかなどといった目で屋台を物色している。

男はコロッケを頬張りながら「やっぱりここ(地元牛)の牛肉コロッケは旨いなあ、350円にしては安すぎるんじゃないか」などと言う。
私は無言で黙ったまま聞いていた。いちいち反応する気もない。しかし、どうしてそんなのん気にしていられるのだろう、と呆れるばかりだ。
コロッケの味なんてだいたいどこでも一緒だろうに、いちいち”どこどこのコロッケ”の味に感動しては身が持たない。そもそも美味しいと感じるなら外で食べ歩くるからであって、しかも花見という特殊な環境においては増長されるのでありコロッケ自体が特別な味なのでなく、環境が美味しいという状況を作っているに過ぎないと私は思う。だって、家で食べれば味は一緒だ。100円のコロッケも350円のコロッケもみんな家という環境においては同軸で一緒に過ぎない。

男はコロッケを平らげると「やっぱり連休はいいものだなあ、楽しい。明日は久々に渓流釣りにでも行こうかな」と言った。
私はやっぱり男のそのどうしようもないのん気さに驚いた。
男はこの花見に(食べ物に)も感動して渓流釣りにも感動するのだ。

行為にはどこにいっても自分がつきまとうから私はこの花見もコロッケの味も、渓流釣りにも何も感動しない。全て一緒だと思った。
全て一緒だというのは何も全て無だということだった、少なくとも私には。
私にはこれら全ての行為が、何ものも残さないただの無の一つだと思えたのだ。
「せっかくの連休だもの、やりたい事目一杯やらなくちゃ損だ。遊べる時間も体力も今しかないんだし」
男のバイタリティには感服する。
けど同時にそんなに楽しいことを楽しんで、でもそれがふとした拍子に冷めたとき彼は無に陥ったりはしないのかと思った。
無為の日常を楽しんで、それが実は本当に無駄だとわかった時に彼は、どう思うのだろう。
いや、そこに陥らないがために次から次へと来る”新しい楽しみ”に彼はこの花見の客もしがみついているのかもしれなかった。

私には全ての行為が一つの同じような事のもののように思えた。登山も釣りも、花見も、海水浴もどこにいっても無だと思ってしまえば一つの大きな無になって、全ては収束してしまうのだ。

「渓流釣りがてらソロキャンプってのも悪くない、外でコーヒー沸かしてさ。星空見ながら一服・・・うん、いいね、明後日も休みだし。やろう。」
でもたぶんこの人(この男)は一瞬の享楽を楽しんで追い求める彷徨い人というわけでもないのだろうと私には根拠のない確信があった。
のん気なこの男は全てに少なくとも自分がやろうとした事には感動できるのだ。
自分の行為が無為のものだとは感じてなくて、ただすることに対して本当に楽しくないとも感じるしでも楽しいとも感じられる人なのだと思った。


私には”楽しみ”が朝から昼にかけての日が昇っている間だけのことで、夕や夜には無くなって暗く沈んでいくことのように思えた。
だから、夕方も夜も嫌いだった。私を不安にさせるからだ、唯一明け方だけが好きな時間だった。明け方はこれから日が昇っていくからだ。

「さて、花見もあらかた見終わったし。今日これから・・・どうしようか。美味しい晩ご飯でも食べて帰ろうか、あ、でもその前にキャンプ用のマキ買っていかなくちゃな」

この男はこれから訪れる夜にも明日にも明後日にまで続く楽しみを見出している。なんて恐ろしいのだろうと思った。
きっと花見に来た他の人たちもそうだ。これから今日夜も明日も明後日も続く休みに楽しみを見出している。
皆にはそれらが無の中の一つの日常だと思えてないのだ。明日は今日とは違う日で明後日は楽しい日でもありえるのだ。


私も”知る前”はそうであったハズだった。一つ一つは違う日常で日々は有意義であるものだった。きっとそれが普通のヒトであったのだ。

だが、今はそれが、それら全てが同じであった。
全てが同じであれば楽しいと感じられたらたら楽しかったのだろう。無だと感じられたら全ては無になった。

「きっと明日も楽しいさ」
と言う男の背は、ヒトの形をしていた。見れば周りの花見の客も全員ヒトのように思えた。


もうすぐ日が沈む、夜が来る。
私は、花が散って枯れた木の道の真ん中でただ呆然と立ち尽くしていた。